人間をつくる

 

 


遠くへ行きたいと思っていました。


高校一年生の秋、母と二人で暮らしていた家を出て、小学校に上がる前にはなればなれになってしまった父の家で三週間ほど暮らしたことがあります。

当時の私は、母に対してそれなりに反抗的でした。思春期特有のアレです。
しかしあの秋の日、母に言われた一言は今でもどうしても許せない一言で、翌日、どうにも怒りが収まらなかった私は、学校帰りにそのまま近所に住む父方の祖父母の家に直行しました。
年始には必ず挨拶に行っていたので久々に会ったわけではありませんでしたが、急に来た私に祖父母は驚いていたような気がします。
私の好物が並べられた食卓を前に私は、

「お父さんは今どこに住んでいるの?」
「私はどうしてもお母さんのことが許せないから、離れて暮らしたい。」
「だからお父さんと暮らそうと思う。お父さんは今どこに住んでいるの?」
そんな風に、おそらくまあまあな勢いでききました。
祖父は困り、祖母はなにも言わず、その日から三日ほど祖父母の家に寝泊まりした後、私は母と暮らす家に一度帰されました。帰りが遅いので祖父母を困らせてしまったのでしょう。
その後、一週間ほど母と一切口をきかずに生活した後、隣の市に住んでいる父の家に一ヶ月ほど住むことが許されました。

父の家は学校にもまあ通える範囲で、当時好きだった人の最寄駅の隣駅から歩いて十分ほどのマンションの一室でした。
「このマンションはねえ、屋上から飛び降りて死んだ人がいるんだよ。」
父がぼそぼそと言っていた記憶があります。たしかに少し不気味なマンションでした。
そのマンションの三階だったか四階だったかに父の部屋はありました。饐えた匂い。3DKはあった気がします。実はあまり覚えていないのです。私は玄関を入ってすぐの部屋にずっといましたし、リビングを通って隣の父の部屋は一度だけ覗いたことがある程度。父は部屋の扉を開けたとき、なんだか居心地の悪そうな顔をしていました。恥ずかしかったのかもしれません。狭い部屋、万年床、沢山の本、白熱灯の下で寝転がる父は、なんだか同年代の男の子が家でだらだらしている時の姿みたいでした。同年代の男の子が家でだらだらしているところを私は見たことがないけど、きっとこんな感じだろうって想像の通りだったのです。

父は料理をしませんでした。
私がいた約三週間の中で料理をしてくれたのは一回か二回程度。炒飯を作ってくれたような、パスタを作ってくれたような、その程度の記憶しかありません。大体は外食、というか部活で帰りも遅かったのでコンビニで買って食べることが多かったような気がします。これは母と暮らしていた時と差はありませんでした。

初めて父の家に帰るとき、父は行きつけの飲み屋に私を連れて行きました。高校一年生の娘を連れて飲み屋にご飯食べに行くってどうなの?と思ったけど、わくわくでかき消されてしまったのでそんなことはどうだってよかったんです。あの時私はちょっとしたおつまみみたいな適当な野菜炒めと、オレンジジュースの瓶を頼みました。父は瓶ビールで、ああ、お父さんとお酒飲みたかったな。

そう、父はもう死んでいます。私が十九になったばかりの冬の終わり、春を待たずに死にました。家出から四年後のことでした。脳溢血でした。血管が詰まって急にぱたり、大体の場合、手の施しようがないそうです。運良く一命をとりとめても、そのまま意識が戻ることはほとんどないのだと知ったのは、有名な俳優さんが同じ病気でそんな死に方をしたから。

父が死んだ時間、私は恋人とセックスをしていました。真夜中に祖父の家から電話がかかってきて、なんだろうな?と首をかしげる私に、恋人がなんて言ったか全く覚えていません。が、恋人はお通夜の時一瞬だけ電話をかけてきて「泣きたいと思ったら我慢しないこと。じゃないとその後うまく泣けなくなるから。」と言ってくれたことは覚えています。あれからもう九年経っているので、勿論その恋人とは別れています。勿論なんて書くのも、なんだかなあとは思いますけど。

父が死んだ時、母は寝ていました。寝ていた母は、足元の方になにかの気配を感じて、当時飼っていた猫の名前を呼んだそうです。にゃあ、と返事が返ってきた時、飼い猫は枕元の近くにいたと母は言っていました。もしかしたらあれはひろあきくんだったのかもねえ、と言う母の声は静かでした。

母と父が別れたのは、父の浮気が原因だったときいたことがあります。実際にどうだったのかはわかりません。私はその頃五歳くらいでしたし、父のエピソードなんて両手両足の指で足りる程度しかありません。別れてから十年程は会ってませんでしたし、小学校の入学式には来たそうですが、私は何も覚えていません。

父と最後に会ったのは、私が高校を卒業した春でした。父が死んでしまった日から十一ヶ月くらい前、父方の祖父母の家に高校卒業の挨拶をしに行った時のことです。高校卒業後デビューをした金髪の私は、厳しい祖父にとやかく言われることを面倒に思って黒スプレーを買いに行こうとしていました。しかし、それに対して父は「そのままでいい。」と言いました。そのままで疾しいことがあるわけでもないのだから、そのままでいいだろう、そのままのお前で行きなさいと、普段ふにゃふにゃした物腰柔らかな父らしくない、頑とした態度で言いました。私はその時、お前がいなかった期間私がどんな風に祖父に躾けられたかお前は何もわかっていない、という気持ちで、まあさっくり表現するなら不機嫌になってしまいました。父は私の機嫌をとることが出来ませんでした。不器用な人でした。ただ、目に見えるほどおろおろはせず、静かにどうしたらいいかと困っているようでした。あの時、どのようにしてその場を終えたかを私は全く覚えていません。ただその後十一ヶ月程度生きていた父から二回ほど着信がありましたが、忙しさにかまけて折り返し連絡することもなく、そのまま父は死んでしまいました。

私には父のことがよくわかりませんが、死んでしまうということはずるいなあと思っています。これは母が言っていたことで、なるほどその通りだと思ったのですが、死んでしまうと過去になるから、いい思い出ばかりが浮かび上がってきて、嫌な思い出はある程度許せてしまう。記憶の中にしかいなくなるということはそういうことなんでしょう。ずるいという表現が適当かは正直わかりませんが、ずるいって言わせてほしいという気持ちはわかってほしいというか、なんともわがままな話だと自分でも思います。それでも父はずるい。私は父を全く恨んでいません。それは父との記憶がなんとなく全部良いものになっているからです。

その点母はかわいそうなもので、まだ生きているし、私は母を恨んでいます。これはきっと死んでも消えることがないものです。何故ならそれだけの時間を私と母は過ごしてしまった。

高校一年生のあの秋の日に言われたことも、小学六年生に上がる前の春休みのことも、中学一年の夏に起こったことも、他にもたくさんあげ始めたらきりがないほど、許せないことがたくさんあります。私はこれらを許すつもりは全くないし、許すことがあるとしたら私が死ぬ時でしょう。

母は私の人生を大きく変えた人です。音楽も演劇も文字を書くことも全て母の影響ではじめているものですし、すきになってしまったことです。私という人間のアイデンティティに大きく関わる部分は全て母に支配されています。音楽も演劇も本もすべて、物心ついた頃から近くにあって、それらを取捨選択できるほど私は育っていなかった。私という人間の基盤をつくったのは間違いなく母であり、私はそのおかげで沢山の素敵なものや人や思い出に出会えたけれど、それと同じかそれ以上に苦しまされています。現在進行形で。

母は今三度目の結婚をして田舎暮らしをしています。二匹の猫と旦那さんと一緒に幸せに暮らしていることでしょう。結婚をする時も、母は勝手な物言いをしました。「家族を解散する。」と言ったのです。私はそれでかまわないと答えました。元々家族という形ではなかったのだから解散も何もと思ったのと、正直重荷をおろした気分でした。私は一人っ子であるがゆえに、もし母に何かあった時、私が面倒を見なくてはならないということがこわかった。何故なら私は母の教育のせいで演劇の道を選んでしまったし、その夢を捨てることが出来なかったのだから。これで母のせいで演劇の道を進むことをやめるしかなくなってしまったら、いよいよ私は母を手にかけてしまう。全部お前のせいだと言ってしまう。母は勝手だと言うでしょうし、世間的にもかなり勝手ですが、私はそう思ってしまうのです。すべてコントロールされているといっても過言ではない私の人生です。私の感受性はすべてコントロールされている。私という人間は、許された父と許すことのできない母から生まれ、今もこうして生きています。私は父と母によってコントロールされて生きているのです。選び取った大体の物事は、父と母の影響でこうなっています。それほどまでに私は父と母につくられている。私は、父と母によってつくられ、生きているのです。

 

父の家に家出をする期間は一ヶ月と最初に決めていました。

しかし私が母と暮らす家に帰ったのは、家出をはじめて三週間後でした。家に帰って少し経った頃、母は私にききました。「どうして帰ってきたの?」私の答えはシンプルでした。

「どこに行ったって何も変わらないから。」

 

遠くへ行きたいと、思っていました。