ままごとみたいでいいじゃない

 

 

 

一番長く付き合った恋人に、ままごとみたいだねって言ったら喧嘩になった話を書きます。

 

そもそもどういう文脈で言ったかって、確か生活をしている時に、本当に何気ない、些細な幸せを感じ取って言ったはずなんですけど。

私にとって「ままごとみたいな」ってすごい褒め言葉なんですよ。だってあり得ないから。あり得ないじゃないですか、ままごとみたいな生活。

消費税は上がるし、家賃は毎月振り込まなきゃだし、自炊は面倒だし、洗濯物の山ばかりつくってしまう。

それでもどうにかこうにか楽しく生活してるのって、すごいことだと思ったんです。その楽しさは、私がイメージするままごとの楽しさだった。

 

ままごとは、生活に対する憧れを詰め込んだ遊びだ。

家で猫を飼えなくても、猫役の人が現れれば猫を飼うことが出来る。今夜はカレーよってお母さん役の人が言うのは、カレーが幸せな家庭のテーブルによく似合うからで、例えばその人にとってパッタイが幸せな家庭のテーブルに似合うものならパッタイを並べたっていい。ただ、パッタイは子供役の人やお父さん役の人から大ブーイングを食らうと思うけど。 

 

みんなで並んでソファーに座ってテレビを見るのも、お風呂に入る順番で喧嘩をするのも、川の字で寝るのも、朝起きて遅刻遅刻!って慌てるのも、靴下かたっぽ見当たらないって愚図るのも、暑くなってきたからって西瓜買って帰るのも、洗濯機のホースが外れて部屋が水浸しになるのも、おかえりなさいって言うのも、ただいまって言うのも、

 

幸せだと思うそのシーンに、一瞬と永遠を同時に見る度、ままごとみたいだって抱きしめたくなる。

それをあの子にはわかってもらえなかった。

すごい不機嫌になって、怒られた。

 

長く一緒にいて、分かり合えるところも分かり合えないところも沢山あったけど、この件もその中の一つで、

あの子にとって、ままごとみたいって言葉は、にせものみたい、とか、虚構でしかない、とか、そういうものだったんだろうな。

だから今そばにいないのだろうとも思うけど、もっと分かり合えなかったものかな。何かしら、分かり合うための何かしらがあっても良かったのにな。あの子もだけど、自分が。

それがかなしいな。今もまだかなしいな。

 

ままごとみたいでいいじゃないって誰かに言ってもらいたかった。

嘘じゃないよ、ずっと続けようって、言葉になんかしなくていいからままごとしたかった。ままごとがしたかったんだよ。

 

透明のステーキが一番おいしいのはなぜでしょうか?