ライオンになれなかった

 

 

マリリン・マンソンのアルバムは『EAT ME , DRINK ME』が一番好き。

 

普段マンソンが歌ってるキリスト教?ハァ?みたいなところから圧倒的に遠く離れた、愛だの恋だのにズブズブに溺れた甘くてしょうもない曲ばかりが収録されたアルバム。当時めっちゃ若い女の子と恋仲になったマンソンが、リード曲扱いした『Heart-Shaped Glasses』のPVにその女の子と一緒に出て、これはいってる?はいってるよね?みたいなラブシーンを挟んだりとかしてた。もうその頃には立派なおっさんだったのに、マリリン・マンソン。なんて純粋な男なんだ。

そしてその当時17歳だったわたしは見事にそのアホなまでの甘い音楽たちをすきになった。勿論そうでなくても遅かれ早かれ通ったであろう道なんだけど、マリリン・マンソンの音楽。

わたしはぐずぐずにズブズブに溺れてしまうような恋をした男が、なんだか哀れに思えた。PVの最後、車に乗ったマンソンと女の子がキスをして火だるまになった車と一緒に落ちていくんだけど、それを見て、きっとこの女の子の思うがままだったんだろうなと思った。PVの内容的というか、ストーリー的には全然そんなことなかったのに。

 

思えばわたしは17歳の頃からずっとなにも変わっていなくて、いやきっとわかる人はわかるんだろうし、そうでなくてもなんだ、想像はできるんだろうけどどうなんだろう、すきなものを神格化するところがある。きっとマンソンもそうなんじゃないかって思った。いやわかんないや、マンソンはもっと男性的かもしれない。でも実際マンソンは女の人たちに手のひらで踊らされているし、わたしももしかしたらそうなのかもしれない。男の人たちに散々復讐したわたしは、男になれなかったし、女の子を神格化してきたわたしは、女にもなれない。ジェンダー的にはどこにも属することができないと思っている。そんな話がしたいんじゃない。神様の話がしたい、神様の話。

 

愛してる、を、言い換えてきたたくさんの偉人変人凡人は、自分だけの答えを見つけてきっと満足でしょうなあ。わたしも見つけたと思ってたんだけど、多分まだ、もっと、より良い答えがあるのだと思う。より良い答えを探す方に賭けてしまった。

言葉が追いつかないから手が出てしまうんですねって言った友達の言葉に、かつての恋人に暴力を振るった時の自分を重ねてしまったんだよ。言葉が追いつかないから殴るし、言葉が追いつかないから抱かれてしまうんだねってわかってしまったよ、かわいそうだって少し思った。だってかわいそうはかわいいだよ。かわいいかわいいってじゃれついていつのまにか相手を殺してしまうライオンにでもなれたらな。そしたらあなたを食べてしまえるのに。どうしてあなたはライオンでないのだろうか。そしたらわたしを飲み干してもらえたのに。

頭のおかしいかつての恋人、自分で自分を気持ち悪がりながらこっそり教えてくれたんだよな。

「ピアスをすごく近くに二箇所あけてね、それをちょっとずつ拡張していくの、それでその穴同士をくっつけて、耳をちぎろうとおもったんだ。でもうまくいかないから、その間をちょっとだけハサミで切ったの。うまくいったけど血だらけで、あと、耳の肉がちぎれた、ほんの少しだけ。それをね、なんか、全然わかんないんだけど、食べちゃったの。」

どうしてそれ取っておいてくれなかったのって、あの時言えなくてごめんね。気持ち悪いわけがなくない?あなたはあの時神様だったんだから。

 

この間観に行っためっちゃ面白い演劇に、宗教変えては変な男に引っかかる女の人が出てきたな。わたしはそれの逆かもしれない。すきな人が変わるたびに神様が変わる。神様ってなんなんでしょうね。内在しているなんて嘘だよ、少なくともわたしの中にはいないよ。だってわたしの中に神様がいたんだったら、あなたのことを神様だなんて思ってないよ。いつでも心で呼んだりしないよ。いっつもさみしいひとみたいだ、馬鹿みたいだ。マリリン・マンソンはすごいな。浮かされたまんまあんなに沢山音楽つくるんだから。すぐ喧嘩するし歳も歳だなって感じになってきたけどやっぱりかっこいいもんな今だってきっとかっこいいもんな。まあ最近のマンソン聴いてないけどさ。音楽の趣味変わっちゃったんだよ、神様がかわっていくみたいにさ。

自分の中で作るべきは、辞書と聖書の二冊だったと、28年生きてようやく気づきましたとさ。黙祷!

 

 

 

人間をつくる

 

 


遠くへ行きたいと思っていました。


高校一年生の秋、母と二人で暮らしていた家を出て、小学校に上がる前にはなればなれになってしまった父の家で三週間ほど暮らしたことがあります。

当時の私は、母に対してそれなりに反抗的でした。思春期特有のアレです。
しかしあの秋の日、母に言われた一言は今でもどうしても許せない一言で、翌日、どうにも怒りが収まらなかった私は、学校帰りにそのまま近所に住む父方の祖父母の家に直行しました。
年始には必ず挨拶に行っていたので久々に会ったわけではありませんでしたが、急に来た私に祖父母は驚いていたような気がします。
私の好物が並べられた食卓を前に私は、

「お父さんは今どこに住んでいるの?」
「私はどうしてもお母さんのことが許せないから、離れて暮らしたい。」
「だからお父さんと暮らそうと思う。お父さんは今どこに住んでいるの?」
そんな風に、おそらくまあまあな勢いでききました。
祖父は困り、祖母はなにも言わず、その日から三日ほど祖父母の家に寝泊まりした後、私は母と暮らす家に一度帰されました。帰りが遅いので祖父母を困らせてしまったのでしょう。
その後、一週間ほど母と一切口をきかずに生活した後、隣の市に住んでいる父の家に一ヶ月ほど住むことが許されました。

父の家は学校にもまあ通える範囲で、当時好きだった人の最寄駅の隣駅から歩いて十分ほどのマンションの一室でした。
「このマンションはねえ、屋上から飛び降りて死んだ人がいるんだよ。」
父がぼそぼそと言っていた記憶があります。たしかに少し不気味なマンションでした。
そのマンションの三階だったか四階だったかに父の部屋はありました。饐えた匂い。3DKはあった気がします。実はあまり覚えていないのです。私は玄関を入ってすぐの部屋にずっといましたし、リビングを通って隣の父の部屋は一度だけ覗いたことがある程度。父は部屋の扉を開けたとき、なんだか居心地の悪そうな顔をしていました。恥ずかしかったのかもしれません。狭い部屋、万年床、沢山の本、白熱灯の下で寝転がる父は、なんだか同年代の男の子が家でだらだらしている時の姿みたいでした。同年代の男の子が家でだらだらしているところを私は見たことがないけど、きっとこんな感じだろうって想像の通りだったのです。

父は料理をしませんでした。
私がいた約三週間の中で料理をしてくれたのは一回か二回程度。炒飯を作ってくれたような、パスタを作ってくれたような、その程度の記憶しかありません。大体は外食、というか部活で帰りも遅かったのでコンビニで買って食べることが多かったような気がします。これは母と暮らしていた時と差はありませんでした。

初めて父の家に帰るとき、父は行きつけの飲み屋に私を連れて行きました。高校一年生の娘を連れて飲み屋にご飯食べに行くってどうなの?と思ったけど、わくわくでかき消されてしまったのでそんなことはどうだってよかったんです。あの時私はちょっとしたおつまみみたいな適当な野菜炒めと、オレンジジュースの瓶を頼みました。父は瓶ビールで、ああ、お父さんとお酒飲みたかったな。

そう、父はもう死んでいます。私が十九になったばかりの冬の終わり、春を待たずに死にました。家出から四年後のことでした。脳溢血でした。血管が詰まって急にぱたり、大体の場合、手の施しようがないそうです。運良く一命をとりとめても、そのまま意識が戻ることはほとんどないのだと知ったのは、有名な俳優さんが同じ病気でそんな死に方をしたから。

父が死んだ時間、私は恋人とセックスをしていました。真夜中に祖父の家から電話がかかってきて、なんだろうな?と首をかしげる私に、恋人がなんて言ったか全く覚えていません。が、恋人はお通夜の時一瞬だけ電話をかけてきて「泣きたいと思ったら我慢しないこと。じゃないとその後うまく泣けなくなるから。」と言ってくれたことは覚えています。あれからもう九年経っているので、勿論その恋人とは別れています。勿論なんて書くのも、なんだかなあとは思いますけど。

父が死んだ時、母は寝ていました。寝ていた母は、足元の方になにかの気配を感じて、当時飼っていた猫の名前を呼んだそうです。にゃあ、と返事が返ってきた時、飼い猫は枕元の近くにいたと母は言っていました。もしかしたらあれはひろあきくんだったのかもねえ、と言う母の声は静かでした。

母と父が別れたのは、父の浮気が原因だったときいたことがあります。実際にどうだったのかはわかりません。私はその頃五歳くらいでしたし、父のエピソードなんて両手両足の指で足りる程度しかありません。別れてから十年程は会ってませんでしたし、小学校の入学式には来たそうですが、私は何も覚えていません。

父と最後に会ったのは、私が高校を卒業した春でした。父が死んでしまった日から十一ヶ月くらい前、父方の祖父母の家に高校卒業の挨拶をしに行った時のことです。高校卒業後デビューをした金髪の私は、厳しい祖父にとやかく言われることを面倒に思って黒スプレーを買いに行こうとしていました。しかし、それに対して父は「そのままでいい。」と言いました。そのままで疾しいことがあるわけでもないのだから、そのままでいいだろう、そのままのお前で行きなさいと、普段ふにゃふにゃした物腰柔らかな父らしくない、頑とした態度で言いました。私はその時、お前がいなかった期間私がどんな風に祖父に躾けられたかお前は何もわかっていない、という気持ちで、まあさっくり表現するなら不機嫌になってしまいました。父は私の機嫌をとることが出来ませんでした。不器用な人でした。ただ、目に見えるほどおろおろはせず、静かにどうしたらいいかと困っているようでした。あの時、どのようにしてその場を終えたかを私は全く覚えていません。ただその後十一ヶ月程度生きていた父から二回ほど着信がありましたが、忙しさにかまけて折り返し連絡することもなく、そのまま父は死んでしまいました。

私には父のことがよくわかりませんが、死んでしまうということはずるいなあと思っています。これは母が言っていたことで、なるほどその通りだと思ったのですが、死んでしまうと過去になるから、いい思い出ばかりが浮かび上がってきて、嫌な思い出はある程度許せてしまう。記憶の中にしかいなくなるということはそういうことなんでしょう。ずるいという表現が適当かは正直わかりませんが、ずるいって言わせてほしいという気持ちはわかってほしいというか、なんともわがままな話だと自分でも思います。それでも父はずるい。私は父を全く恨んでいません。それは父との記憶がなんとなく全部良いものになっているからです。

その点母はかわいそうなもので、まだ生きているし、私は母を恨んでいます。これはきっと死んでも消えることがないものです。何故ならそれだけの時間を私と母は過ごしてしまった。

高校一年生のあの秋の日に言われたことも、小学六年生に上がる前の春休みのことも、中学一年の夏に起こったことも、他にもたくさんあげ始めたらきりがないほど、許せないことがたくさんあります。私はこれらを許すつもりは全くないし、許すことがあるとしたら私が死ぬ時でしょう。

母は私の人生を大きく変えた人です。音楽も演劇も文字を書くことも全て母の影響ではじめているものですし、すきになってしまったことです。私という人間のアイデンティティに大きく関わる部分は全て母に支配されています。音楽も演劇も本もすべて、物心ついた頃から近くにあって、それらを取捨選択できるほど私は育っていなかった。私という人間の基盤をつくったのは間違いなく母であり、私はそのおかげで沢山の素敵なものや人や思い出に出会えたけれど、それと同じかそれ以上に苦しまされています。現在進行形で。

母は今三度目の結婚をして田舎暮らしをしています。二匹の猫と旦那さんと一緒に幸せに暮らしていることでしょう。結婚をする時も、母は勝手な物言いをしました。「家族を解散する。」と言ったのです。私はそれでかまわないと答えました。元々家族という形ではなかったのだから解散も何もと思ったのと、正直重荷をおろした気分でした。私は一人っ子であるがゆえに、もし母に何かあった時、私が面倒を見なくてはならないということがこわかった。何故なら私は母の教育のせいで演劇の道を選んでしまったし、その夢を捨てることが出来なかったのだから。これで母のせいで演劇の道を進むことをやめるしかなくなってしまったら、いよいよ私は母を手にかけてしまう。全部お前のせいだと言ってしまう。母は勝手だと言うでしょうし、世間的にもかなり勝手ですが、私はそう思ってしまうのです。すべてコントロールされているといっても過言ではない私の人生です。私の感受性はすべてコントロールされている。私という人間は、許された父と許すことのできない母から生まれ、今もこうして生きています。私は父と母によってコントロールされて生きているのです。選び取った大体の物事は、父と母の影響でこうなっています。それほどまでに私は父と母につくられている。私は、父と母によってつくられ、生きているのです。

 

父の家に家出をする期間は一ヶ月と最初に決めていました。

しかし私が母と暮らす家に帰ったのは、家出をはじめて三週間後でした。家に帰って少し経った頃、母は私にききました。「どうして帰ってきたの?」私の答えはシンプルでした。

「どこに行ったって何も変わらないから。」

 

遠くへ行きたいと、思っていました。

 

 

 

生きていく力について

 

 

海鮮の臭いが苦手。

二番目の父親はスーパーの鮮魚コーナーで魚を捌いていた人だった。実の母親が同じスーパーのパン屋で働いていたがために出会ってしまい、母曰く「あんたを育てるために金が必要で結婚した」んだそうだ。その割には毎週末のようにデートのために外に出て、しかもわたしが小さかった事を言い訳にわたしも一緒に連れ出して、乗り物が苦手なわたしのことをおかまいなしに車に乗せてた母よ。クレーンゲームが得意な二番目の父親のせいで無駄に増えたぬいぐるみたちは大体みんな引越しの時に置いてきてしまった。物に罪はないのに、申し訳ないな。

わたしはある程度図太いので(これは母親の血だと思う)いろんなことがあったけどこうやって生きてきたし、これからも生き続けるし、ある程度記憶を改ざんしてでも二番目の父親のことを悪者にしてわたしのことを守って生きていくつもりだ。誰かのせいして自分が生きていけるなら、少しくらい誰かのせいにしたっていいんだ。この世界には見えない弾丸が飛び交っていて、それにいつ当たってしまうかわからないから。その弾丸が貫通するならまだしも、貫通せず身体の中で跳ね回り続けることだってあるし、身体に埋まったまま血がドバドバ流れ続けることだってある。目に見えない傷が一番痛い。だってわたしはこうやってあの人のせいにして色んなことをどうにかしたはずなのに、まだ海鮮の臭いが染み付いた布が駄目だし、そもそも海鮮の臭いがきつい場所にはいけない。だから街のいい感じの寿司屋に入るのが怖くて、ちょっとチープなかっぱ寿司のにおいがすきなんだ。

母親が知らないだけでわたしは男の人から散々お金を巻き上げることを生業としているし、そのお金で生活をしている。実の父が知ったらなんとも言えない顔をするだろうけど、わたしはこうしてでも生きていくよこれからも。絶対に生きてやる、それが何よりの復讐。

 

 

春はあけぼの、首を吊るなら、

 

 

ずっと同じ気持ちでいられないなら今すぐ死んでしまいたいってそれだけしか思ってないのに。

早めに死んでしまうんじゃないかって思う理由としては、季節が変わるたびに好きな人との楽しかった事柄と同時に悲しいお別れを思い出してしまうから。だってわたしとあなたの間にあった大事な思い出はもう手垢まみれになる他なくて、そんなの嫌なのにわたしはどうしても思い出すことしかできないんだよ、こんなの死ぬしかないじゃない。頭掻きむしって髪の毛ぐしゃぐしゃにして枕に口つけてアーーーーーーって言うしかない。昔見た演劇みたいに、いくつになっても終わらない思い出が心臓をカリカリしてくる。ただ爪を立ててるだけなのに、どこをやられているかによって痛みが変わるなんてそんな殺生な。痛くするなら殺してくれよ。痛いくらいなら死んだほうがいいよ。教えてくれ、死んじゃうくらい痛いこと。優しくなんかしなくていいから、一瞬で息の根止めてほしい。あなたの手はびっくりするほど白かったなあ。赤いヨーヨー、全然うまく遊べてなかったね。高台からの風景が好きだったな。高層ビルの向こうからやってくる朝焼けはきれいだったね。朝になってほしいと思った夜はなかったよ。いつまでも夜ならいいのにっておもいながら朝だよって言ってた。おはようってもう言えなくなっちゃうけど、同じ朝が来るならいいな。それなら少しはいいかな。どうかな。どう思う?もちろん答えはいらないよ。

 

 

 

昨日書いてたこと

 

 

ポケモンGOTwitterを行ったり来たりしながら音楽をきいている。イエローマジックオーケストラのそのアルバムは発売から39年経っているのに、私ときたら、私ときたら。

たくさん未来のことを考えてきた。その度に可能性が広がりすぎてなんかもう、逆に立ち止まるしかなくなってしまって。なろうと思えば何者にもなれた。何者にでもなれた過去から少し遠く、今はその距離と比例するように可能性が狭まって、安心してるんだか絶望してるんだかよくわかんない顔で私は笑っている。笑ったそばから顔じゅうの皮膚がべりべりと剥がれ落ちると、その下の肉は赤い。かろうじて血の流れを感じる色だ。これがもし青や緑だったら、わかりやすく迫害されて悲劇のヒロインになることが出来たら、ないものねだり。

 

 

 

 

 

布団の中でなきゃ書けないものもある

 

 

一日がどんなに楽しくても、あー楽しかったってしあわせな気持ちで眠れない夜ばっかりだ。もう朝だ。

真っ暗な部屋の中で書く文章はこの世界のものではなく、どこか遠い世界で起こっていることみたいだ。

あまりにも言葉を知らない私は、自分の辞書を夜な夜なひいて、ちょっとずつちょっとずつ、ここではないどこかを構築する。

右目が痙攣しているのは、真っ暗な中でブルーライトと対峙しているから。

季節は秋。これから寒くなればなるほど、夜は長くなっていく。秋の夜長よりもっと長く深く暗い夜。外の気温と大差ない部屋の中、吐いた息の白さを見たらその瞬間寒さに気付いてしまうだろう。だから私は毛布と掛け布団の中に潜りこんで、天井の低いあなぐらのようなその場所で、液晶画面に水滴をつけながら文章を打つことになる。これは未来の話のようで過去の話で勿論未来の話でもある。何故なら季節は巡る。何度も。何度も何度も。何度も何度も何度も。あの年のあの季節はもう来ない。なのに季節は巡る。何度も。何度も何度も。何度も何度も何度も。これは終わらない悪夢の話ではない。何故なら私はいつか死んでしまうから。死んだら季節なんてない。煩わしい人間関係も、責任も、信頼も、失いたくない誰かも、朝も、昼も、夜も、食欲も、性欲も、睡眠欲も、仕事も、締め切りも、道も、木も、水も、うるさい工事の音も、どこからか流れてくる夕飯の匂いと夕焼けも、夜に灯るやさしいアンバーの部屋明かりも、さみしげに通り過ぎる車の音も、はしゃぐ子供の声も、退屈そうに通り過ぎる他人も、聞きたくもない議論の声も、上の階に住む人の足音も、期待も、羨望も、憧憬も、憐憫も、嫉妬も、贅沢も、貧困も、春も、夏も、秋も冬も、また巡って来る春も、あの頃と違う夏も、掴む隙さえない秋も、終わりの見えない冬も、何もかも、何もかも、何もかもがなくなる。何もかもがなくなるのだ死ぬと。死ぬとすべてがなくなる。消えてなくなるのだ死ぬと私が。個が。1あったものが0になる。0になる。

私は0になる、いつか0になる。0になるから、今何やっても大丈夫。1は2になったり10になることがあったとしても絶対最後は0だから大丈夫。0になれるから平気。0は怖くない。怖いのは私が今1だから。0になると怖いのもなくなる。何もかも手放すことになる。何故なら私は死ぬから。死んだら0になるから。0は救いだ。熱々のスープの中に放り込まれて、私はぐずぐずにとけた具とも言えない具になる。誰も飲まないスープの色は、勿論誰も知らない。何故ならそこが0だから。0は空間ではない。0に時間はあるだろうか。時間がもしあるとしたら、この世で最も強いルールは時間なのかもしれない。ここではない遠く遠くの星にも、同じように時間が流れているとしたら?それともその星ではルールが違うのだろうか。私は統制のとれた話が出来てるだろうか。出来ていなかったとして別に問題はないのだけれども、ここはどこだろうか。こことはどこなのか、これは場所の話でもアイデンティティの話でもない、私の足の裏が踏みしめるここは、私の身体を横たえるここは、一体どこなのか。住所の話なんかではなくて、データの話でもディテールの話でもなくて。

まだまだ戦わなくてはならないのだとして、敵なんて本当にいるのだろうか。右目の痙攣は止まらない。びくびくびく、と鳴いている。声なき声で鳴いているせいで、それは誰にも聞こえない。だから私は安心する。安心して、もっと深く小さくなって、目を瞑ろうと決心する。眠れますように。信じる先も祈る先も持ち合わせていない、いつか0になる1より。

 

すきな音楽をきく

 

音楽を「聴く」と表記するの、照れがあるからあんまり好きではないんだけど、こっちが正しいのかな。それとも「聞く」なのかな。

「きく」っていろんな漢字があって、でもそれを正しく使い分けることが私には出来ない。

それは私の不勉強ゆえであることは間違いないんだけど、だって学校で教わることではないし。

学校で習うことっていうのはそういうことじゃなくて、漢字の形や読み方、大雑把な使い方だけだ。これは記憶させられているだけ。

私はすきな音楽を「きく」ときに、最も適した「きく」はどの漢字がすぐに出てこない低学歴人間なわけだ。

人にものをたずねて答えを求める時は「訊く」と「聞く」どっちが正しいんだろう。「訊く」だと尋問の意味っぽくなっちゃうよっていう人もいるし、雰囲気だよっていう人もいるし、難しすぎるよ日本語。

「聴く」は耳を傾けるという意味があるらしいけど、私はしばらく耳を傾けて音楽をきいていないし、正しく表現するなら、音楽で奮い立たせてるみたいなところがあった。これは作り手的にはどうなんだろうか。

作品は自分の手元を離れた瞬間から他人のものだと私は思ってるけど、でもそれはあくまでも作り手としての私の意見で、受け手の私としては作り手が一体なにを思っていたのかっていうのはやっぱり知りたいことなんだよ。知りたいし気にしていたいことなんだよ。

私はそろそろ本気で漢字検定を受けた方がいい。今年の冬は漢検の勉強をするぞ。